昭和57年4月1日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
第94節 信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするような ことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。
昨夜は月末御礼信話会でございましたので。もう、半ばすぎでしたでしょうか。椛目、私の従兄弟に当たります、田中、学長をしとります。田中さんが参拝して参りまして、孫があの、四時頃から行方不明になっておる。小学校二年生。四時頃、友達と喧嘩をして、何処さにか行ったという、そこまでは分かってるんですけども。それから夕方になってもいよいよ帰って来んから、まあ、村中で探し、警察のパトカーも出て、まあ、捜査に当たってもらったと言う。
もう、それこそ、昨日は暖かでしたから、洋服も脱いで、もうシャツ一枚のような格好で出て行っておりましたから。もう、お腹も空いておるだろう、寒くもあろうと。もう、おばあちゃんですから、それこそ、まっ、大変それこそ泣きの涙でのお届けでした。ちょうどそういう、ここで信話会の半ばでございましたから、終わりましてから、もうやがて11時過ぎだったでしょうか、終わったのが。
それから神様にお礼を申させて頂いておりましたら、あの、貞男さんていうのがその子供の父親になりますが。貞男さんがニコニコ笑って、あの、出て来たところを頂きましたが。ほれで、まっ、お礼参拝をして、だから私は、もうやがて12時でしたけれども、まあ、椛目の方からお礼に出て来るとお知らせが、私は寝もせずに、皆で、私も繁雄さんも家内も、それから私の孫も私の部屋に全部、幹三郎も来ておりましたが。
あの、こっから下がってから待っておりました。そしたら、本当に30~40分も致しました頃でしたでしょうか。まっ、田中さんがお礼に出て来まして、おかげで見つかりましたち。それが、まあ、本当にこんな小さい家はないでしょう。その小さい家の横に自分で貞男さんが作った小屋があるんです。その小屋の中に寝とったて。あんな、本当にそれこそ、まあ、ビックリするやら、驚くやらでございましたそうですが。ね。
そういう、ね、例えば合楽がとあるなら、こんな広い所になら、その、何ちゅう事もない。その、おって分からなかったて。もうそれこそ、もう狭い狭い家、しかも、狭い物置小屋の中におった。もう、ほんの足元におっても、まあ、沢山な人を煩わせたり、家中モンもそれこそ心配して探しておりましたけれども分からなかった。まあ、ここにお取次ぎを頂いて、お願いして帰ったらすぐおかげを頂いてある。まあ、そういうおかげという事もだけれども、私は思うのに、どんなに狭い所に、そこに例えば宝が足元にあっても。
ね、おかげを頂かなければ分からないという事を、私は分かってもらいたいと思うです。ね。私は、今日は私の68回の誕生に当たります。まあ、68年間お生かしのおかげを頂いて、今日私が助かるだけではなくて、沢山な人がここで助かるようになった。本当に、私はいつもここのローカに出て天地を拝ませて頂くんですけれども。もう、私の見える、いわゆる天地、大空いっぱいにくノ一という事を、もう空いっぱいに頂いたんです。
いわゆる、女という字を、まっ、くノ一という事になります。私がおかげを頂いておるのは、あの、もうそれこそ、どのような事であっても、それを喜びいっぱいとは行かなくても、それを有り難い。ね、受けにくい事あっ時は、それを修行と思うて受けてくる。まあ、言うならば、そのくノ一というのは、女の忍者の事を言うんだそうですけれども。まあ、変幻自在、自分の心の使い方の稽古に焦点がおいて、一切が神愛。一切が神願の現れ。
私にかけられる天地の親神様の願いの現れだというところまで分かったんですよね。合楽理念の芯はそこなんです。ね。ですから、もういよいよ持ってです、ね、言うならここでは、まっ、あらゆる角度から一切が神愛ですよ、一切が神願の現れですよ、神様の願いの現れですよと。もうこれを、なら皆さんがそれこそ耳にタコが出けるくらいに頂いた訳ですからね。その頂いておるだけでは、もうそれだけに極まったんです信心は。教祖金光大神の信心、言うなら信心の手厚いのが真の信者じゃと。
真の信者になれば、真のおかげが受けられる。ね。その真の信者とは、真の信心とは、信心が手厚いとはどういう事かと言うと、神様の下さる一切のものを神愛として頂けれるという事なんです。簡単です。ね。もう、いよいよここのところを、それこそくノ一である。いわゆる修行の第一と言われるのですから。ね、この修行にいよいよ取り組ませて頂いて、限りない真の信者を目指させてもらおう。
そして、限りない、大空いっぱいにというのは、私はもう、やはり広大無辺という事だと思うんです。ね。広大無辺と言うておるだけではなくて、その広大無辺のおかげに浴するという事。ね。それこそ、今、田中さんとこじゃないけど、こんな小さい家はなかろうと、その家の中におる、その孫が分からなかったです。村中に迷惑かけたり、警察にまでご迷惑かけたり。ね。それこそ、早くお願いにでも来りゃええけども、その事を心配の方に打ち込んで、それが出けなかった。
ほれで、もういよいよ出てこんという事になって、もういよいよ寒さもけっこうきつうなって来た。ほれで、それこそシャツ一枚で遊びに出て行ってしとるから、どこにどげな風にしとるじゃろうかと思うて、まっ、心配になった、悲しゅうなった、お届けにやって来た。ね、帰ったら30~40分後に、その、もう、あの狭い家の中におったという事。ね、だから、どんなに合楽において、もう言うならおかげの焦点を、もう一切が神愛と分かる事なんです。一切が神願の現れであるという事が分かる事なんですから。そこに、徹したらいいのです。ね。
昨日、名古屋の森さんが、毎月お礼参拝がございます。昨日、体験発表をなさっておられます。大変、有り難いお話をなさっておられて。おそらくこちらに見えて、御理解を頂かれたのでしょうか。そのお話の中に、もうとにかく、ね、御理念による助かりという事を言っておられます。昨日は朝の私は、御理解に申しました事を、もうさっそく受けておられる訳ですね。合楽理念というと、私自身も合楽の評判を聞いておりました。そして、合楽理念の助かりを聞いておりましたけれども、何とはなしに、合楽の宣伝のような感じがして、抵抗を感じておりました。
ところが実際、合楽にお引き寄せを頂いて、合楽理念を聞かせてもろうたら。ね、もう長年の信心、もう求めに求め、願いに願っておった信心がここにあったと気がついた、分からせてもらった。以来というものは、いわゆる合楽理念に基づく実験実証を日々現しておられるという模様を、先だってからのお手紙の中から頂きましたが。先だってお夢を頂いた。広い広い海の向こうから、もう真っ黒い、大きな亀がこちらへ向かって泳いで来る。もう、それこそあの、まあ、黒々とした大きな亀である。
近づいて来るのを見ておると、その亀の上に鶴が一羽、こう止まっておるというお知らせであった。お知らせですね、やっぱ。御神夢です。ね。さっそく、あの、竹内先生宛に、こういう夢を頂いたといったようなお手紙が来ておりましたが、昨日、その事を発表しておられました。そしたら、もう不思議な不思議な事に、その、ある行商人の方が、いろんなその、竹細工とか、何かこう、工芸品のような物を夫婦でいっぱいかろうて、その商いに見えた。
そして、まあ、見るだけでも見て下さいと言うて、ズラーッとこう、並べられた中に、その大きな竹で作った亀の上に鶴が止まっておるという、まあ、置物でしょうね。それがあって、もうビックリしたと言われるのです。そしたら、その人が、これは家のお爺さんが、もう自分の最後の作と言うて、まあ、作りました大事なもんですと。実はこうこうだったからて話したら、そんならお分けしましょうという事になって、まっ、親先生の誕生の日にお供えさせて頂きたいといったような事が、この前の手紙に書いてあった。その事を、昨日話しておられました。
ね、それがどうこうという事じゃないけれども、なら皆さんがここで御理解頂かれるように。ここでは、私の事を、またのお知らせを頂く時に、ね、天神様とか大黒様とか。または、亀とかという表現で頂きますですね。だから、問題はその亀の背中にしがみ付いてさえおきゃね、もう竜宮行きは間違いないと、絶対だと。ね、ただ問題は、頂いたおかげをホコにするような事のない、浦島太郎じゃないけれども。ね、開けてはならないものを開けて、また元の木阿弥になったというような事ではいけないから。その辺のところを、しっかり言うならば信心のけいこをさせて頂いて。
ね、ここが極楽というのであろうか、ここが合楽世界であろうかという世界に住まわせて頂くようなおかげを頂く。そのおかげを頂く為に、様々な真の信心という事が、様々な角度から、まっ、いわば言われもし、説かれもして来たんですけれども。今日私は、ここの信者に不動の扱いをすなというところではなくて、信心の手厚いのが真の信者じゃと仰せられる、信心の手厚いというところ。言うなら、真の信者という事。それは、もう私は、ね、一切が神愛と分からせてもらう、悟らせてもらって、一切の事を合掌して受ける。ね。
または、神願有り難しとして、私にかけられる神様の神願の現れとして、それを受けて行く。もう、ここに徹する以外はない。ね、金光教の言うなら信心、教祖様の御教えを。ね、いわば合楽理念によっておかげの受けられる手立て、お徳の受けられる手立てが、理念によって、こう解き明かされた。それを煎じ詰めると、今の一切が神愛という事が分かるということ。ね、分かったら、なら一切を神愛として合掌して受ける、その事に決めた。いわゆる、くノ一修行に、言うならば徹するということ。これが修行の第一。他に色々な修行もありましょう。ね。
昨日の、石田先生のハガキの中にもありましたように。ね、遠く離れておれば、今現在、ヨーロッパに研修旅行中なんです。(離れておれば?)いちいちお取次ぎを頂くという事は出けない。けれども、そこには御理念があると、初めて御理念という言葉を、まあ、聞いた訳ですけれども。ね。その、御理念の、例えばどのような場合であっても、お取次ぎが頂けなくても、ここを土の心で受けて行こう、神愛として受けて行こう、という生き方以外にないと。
石田先生が、まあ、言いきっておられますように。確かにそうなんです。あの説教を、私自身の68回の誕生を記して、神様はもう、それこそ大空に憚らん、憚るような大きなくノ一を頂いて。ね。限りない一つの偉大なくノ一修行に取り組ませて頂こうと決心したような訳でございますけれども。ね、ここにご縁を頂く人達は、まず、んなら、さまざまなお話を頂いて、確かに御神愛だなあと。この世には悪魔もおらなければ、サタンもいない。ね、罰もなからなければね、因縁りんにそんなものは、もう合楽の(ひかん?)に当てたら問題じゃない。
詫びれば許してやりたいという、その親心にいよいよ縋って行こう。そして神様の心が分かろう。そこには、あるものは神愛のみなんだと。問題は、だから、その神愛のみと、そんなに、言うならばおかげの頂けれる、本当のおかげの頂けれる範囲が狭くなった。ね、そういう話の中に浸っておってもです、おかげを頂かなければ、自分の心が開けなければ、それを本当に頂く事は出けません。ね。まあ、言うならば、四時から、まあ12時頃までです。ね、村中でその探したり、心配したり、分からなかった。
ね、おばあちゃんが泣き泣きお願いに来た。それから、30~40分後には、ほんな狭い狭い、これより狭い家はなかろうと思われるような狭い、しかも狭い小屋の中に寝とったて。というようにです、ね、合楽理念が段々煎じ詰めて行くとです、一切神愛と分かる事なんです。ね、だから、それを、んなら分かったところでです。ね、それを、いわば頂こうという腹が、ね、一心発起が出けなかったら、言うならば、ね。合楽世界に住まわせて頂けれる、おかげの頂けれるその側におっても、その世界に住む事は出けないと。ね。
一心発起、本気で心眼。ね、有り難し。神愛、勿体無しとして、それを受けて行く生き方を本気で身につけさせて頂いて。ね、しかも小さいくノ一じゃなくて、ね。それこそ大空いっぱいのくノ一という事を頂いて。ね、偉大な、いわばくノ一修行に取り組ませて頂こうと。なるほど、合楽理念による助かりというものは、簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かです。もう、こげな簡単な事ないじゃない、本当にそこが分かったら。ね。ですから、もう他に難しい事はない。そして同時に、私は昨日もその話をした事ですけれども。ここで合楽理念という事が、ね、言うなら森さんのような熱心な方であっても、何とはなしに抵抗を感じたと言われるように。
合楽理念、合楽理念という、合楽理念の内容は、ね、善導勿体、まあ、ね。良いお導きを頂いて、いよいよ有り難い勿体無い、有り難いという心を開いて、それを常に持ち続けるだけではなくて、それを合楽世界に持って行こうと。神様も喜んで下さる、いわゆる神様と、いや、一緒に喜び合える世界という内容を持った御理念であります。だから、いわゆる教祖金光大神の御教えをね、御理念によって、言うならそんなに煎じ詰めて来たわけです。言うなら、簡単に。ね、神愛だ、神願だということ。だから、そこを頂かずして、合楽に通うて来る値打ちはない。
ね、昨日、幾人もの方の発表の中に、もうとにかく、起きて来る一切の事柄、例えば問題がです、はあ、これでまた力を受ける、これでまたおかげが受けると思うて、楽しゅうなったと。たら、またある方が言っておられます。もうとにかく、もうこの頃は日々そういう問題が続いておるが。ね、もう、その問題はこう、待たれるような気持ちがすると。だから私は、まあ、申しました事でしたけれども。わざわざその、待たんでんよかち私が。いや、待っちゃいかんて。ね。
そりゃ、ただ、そこに起きて来た問題を有り難く頂ける事の為に、日頃しっかり信心をしておけと言うて、まあ、申しました事です。ね。悪い事を言うて待つなと仰せられる。先を楽しめという、そういう、まあ、大変な御教えがございますようにです。ね、いかにその、難儀が楽しい、有り難い、それによって力を受けると言うても、わざわざ待ってからまでという事ではないのです。ね、またある方が言っておるように、起きて来る。なるほど、色んな起きて来るけども、その次点、次点を、言うなら合楽理念で頂いて行くという風に。これが本当だと私は思うです。
ね、それを言うなら、神愛として受けるのです。難儀は来い、難儀は来いという、それこそ、ね、あれは何ていう。山中鹿之助ですか。ね、それこそ、あの月に向かって祈ったと言われておる。我に七難八苦を与えたまえと言うて。ね、それは、そういう勇気があればまた別ですけれども。わざわざ七難八苦を我に与えたまえと言わんでん、あそこに流れついたそのものを、向こうへ押しやるような事をせずに、有り難く頂いて行けという事なんですよね。どうぞ。